cuncunの中国写真日記 【最初】 【戻る】

□1980年   ■1992年   □1993年
1992/12/31 23:58:58
群馬の実験室の様子です。ここでソフトを書いていました。

Comments(1)
cuncun-2021/06/03 15:51:08
ソフトを書くのが大好きで、しょっちゅう会社に泊り込んでいましたね。 休憩室のソファーがベッドの代わりです。 でも毎日充実していて、疲れたと思ったことは一度も有りませんでした。

1992年 新幹線のぞみ営業開始

この年の前半は1991年に立ち上げたVTRタイマ・シスコン一体化マイコンの技術を後任者に引継ぎながら、 大阪VTR事業部の技術サポートの窓口を行っていました。 マイコンに関連するあらゆる問合せへ対応します。今でいうところのプロジェクトマネージャーですね。
そしてこの年の後半にはテレビ関連のソフト開発を始めました。主な内容は下記です。

■『ソフトの再利用による業務効率改善の提言』
社内の主任職を対象として毎年一回、論文を提出することが恒例となっていました。 テーマはなんでも良いのですが、業務に関連したテーマにしました。 当時のソフト開発の状況は下記の様でした。
 ①ROM容量が少ない
当時のソフトはROM容量が4Kバイト単位でしか使用できず、最大空間が64Kバイトでした。 その為ROMの効率的な使用が重要でした。サブルーチン化はもっぱら容量の削減の為に使用されていました。 汎用化すると容量が増える場合も有るので、モジュール化は考慮されていませんでした。
 ②開発方法
当時のソフトウエアはアセンブラーで記述し、一つのマイコンのソフトウエアは一人で全部を書いている状態でした。 ソフトウエアが実現する機能面においての汎用化はほとんど進んでなく、 プログラマーが自分で作成した部分は自分で再利用するので本人が理解できれば良いという状況でした。
そこで、
今回の論文(S1)は将来的に業務で役立つであろうソフトウエアの再利用化をテーマにまとめました。 自分がこれまでにVTR向けに開発してきたソフトウエアを基に再利用を進めるのに必要な点をまとめました。 結果としてこれがTV向けソフトウエア開発にうまく応用できました。

■『テレビ用の基礎ソフト開発』
1991年に同僚によって開発が完了していた北米Caption-TVのソフト構造を流用し中国PALテレビ対応を検討しました。 テレビという括りでは制御している機能はほぼ同一でありモジュール化することでPAL対応の実現は可能と考えました。
当時のソースコードの構成は一本道を歩いて一軒一軒の家を訪問して行く様に、 長くて分解の難しい作りになっていました。
まずは現状のソースを各処理単位で分類し、それを分割してモジュール化を行います。
その際のポイントは下記をうまく分離することです。
 ①全体構造の枠の部分
 ②枠の中で機能を実現する部品
これがうまく出きれば、後は積み木の様に部品を積み上げて行くだけです。
そしてこの各部品の作成は当時同じグループのソフト開発メンバーに分担して対応してもらいまいした。

■『PALテレビの製品仕様』
市場から入手したPAL仕向けテレビを操作しながら、TVとしての汎用的な製品仕様書を抽出しました。 当時のPALテレビはまだOSD-Menu構造が確立されてなくて、リモコンKeyに連動して動作するソフト処理の集まりでした。
その点では北米向けTVのUIの方がMenu化されていました。 そこで北米TVのUIを参考にしながら、PALテレビに応用するMenu構造を決めていきました。
その際にとても気になったのが、OSDで表示する単語がソースコード上に分散されて記載されている状況でした。

■『OSDインタープリター』の構想
OSDの表示処理の動作の記述と表示する文字列の記述をソース上で分離することを考えました。
 ①UIの文字列を見やすく記述できる
 ②文字の修正でソフトを触る必要が無い
このメリットが有るからです。
そこで考えたのがOSD表示文字をテーブル表記し、そこからUI表示を実行するインタープリターという概念でした。
このアイディアは後々のテレビマイコンで世代を超えて引き継がれて行きました。

■『VTRの選局アルゴリズム』
PAL仕向けのVTRでもTuner制御が搭載されていました。 このVTRの選局処理をTVに応用する事を検討しました。 そこで下記の機能を整理しました。
 ①オートサーチ
 ②周波数記憶方式
 ③選局アルゴリズム
 ④AFT制御タイミング
これらのソフトウエアの部品化を行いました。
VTRではVol-syn方式を採用していましたが、 TVでは北米向けと同じF-syn方式を前提として検討を開始しました。 この時点では他の選択枝はなかったからです。

■『ソフトPWM』の構想設計
通常はハードウエアで実現するPAL放送受信のPWM波形をソフトウエアで実現できるかを検討しました。 ソフトで実現するには処理速度を確保する事が必須です。 つまり下記が必要になります。
 ①PWM処理の高速化
 ②割込みの高速化
上記の処理高速化の為に既存ソフトでは対応したことが無いソフトウエアを開発しました。
 ①割込み構造の再設計
 ②赤外リモコン処理分割
 ③マイコン内蔵PWMの同期制御
ソフトPWMによるV-syn制御ができれば選局アルゴリズムをVTRから流用できるという大きなメリットがあります。 その為、実現に向けて頑張りました。

【用語解説】
●シスコン:
システムコントロールの省略です。 VTRではテープの走行とデータの読み書きを行うメカニカルな機構を制御する部分をさします。 マイクロコントローラを中心とするモーター等のドライバー回路から構成されています。
●タイマーマイコン:
VTRの重要な機能として予約録画があります。 その為、時計を内蔵し時間になるとテレビ信号を受信しテープレコーダに録画を指示する必要があります。 マイコンを中心としてこの機能を実現する回路から構成されています。
 ①赤外リモコン受信器
 ②テレビチューナー制御
 ③録画メカの制御
 ④周辺ICとの通信
●北米Caption-TV:
北米でテレビ放送に義務付けされた聴覚障害者向けの字幕放送。
●PAL:
欧州で採用されているテレビのカラー放送の規格。
●OSD:
テレビの画面に文字や図形を表示する機能。
●F-syn:
受信する周波数をマイコンのソフトで計算しデジタル的に通信で制御する方式です。
●V-syn:
受信する周波数に相当する電圧をICから発生する方式です。アナログ時代からある古い方式です。
●PWM:
受信する周波数を決定する電圧を発生するための機能です。 "5V"か"0V"しか出力できないポートを使用しながら、 電圧を合成する為の波形を出力することができます。

1991年 湾岸戦争

夏休み期間に三洋がスポンサーとなってプロ野球のオールスターゲームが有りました。 会社で団扇が配られました。


新三洋マイコンでVTR一体化ソフト開発に成功した。 またVTR残量計算の為の『24bit高速割算アルゴリズム』をVTR事へ提案した。 この年、VTR向けCPUが成功した事を評価され主任職に昇格した。
TK本さんが三洋ソフトへ入社し、半導体担当として私の部署に配属された。 ここから、長い付合いが始まります。これは運命の出会いと言っても良いでしょう。
S1論文『三洋マイコンのシェアアップへの提言』

1990年 大阪ビデオ事業部駐在

当時VTRには二つのメインマイコンが必要で有った。 メカ制御用マイコンとTuner・予約実行マイコンである。 コスト削減の為、この二つのマイコンを1つに統合する事が VTR事業部にとって大きな課題であった。
昨年Timerマイコンのソフトを完成させた事を評価され、 VTR事から強い要望を受けて住道に駐在した。 自社ではないNECマイコンでVTR一体マイコンのソフトを開発した。 このプロジェクトの開発に成功し双方の事業部で高い評価を得た。 実務から得た情報をもとに三洋新マイコンの開発に参与した。

1989年(平成元年)

業務ではA6論文
『ソフトウェア開発の現状と今後の進め方』を提出した。 開発では大阪VTRから引き受けたTimerマイコンソフト(PAL-VPS含む)を自力で完成し 挫折から復活した。

1988年 ソウルオリンピック

業務ではA6論文
『4bitマイコンのプログラム汎用化の手法と考察』を提出した。 開発では大阪VTRのシスコン・マイコンの派生機種開発を任されたが失敗し挫折した。

1987年 自宅購入

東京三洋電機が三洋電機に吸収合併された後に、所属部署は東京製作所、半導体事業部となった。
そして4bitマイコンを使用した各種商品の開発と後輩の指導を担当した。 VTR用Viss信号検出用サブマイコンのソフト開発に成功。
古河に自宅を購入した。新築の建売住宅です。カミさんのたっての要望なので頑張った。 今後の転職にも頭に浮かんでいて通勤の便のよい駅から歩いて10分以内というのも決めてになりました。
この場所は地元ゆかりの鷹見泉石の領地だったそうです。 AKAI電機の退職金を頭金にし、いろいろと試算して30年ローンを組んだ。 支払いは家賃と同等程度で済んだ。運が良かったと思う。

1986年 東京三洋電機へ入社

■12月1日三洋電機へ合併
東京三洋は三洋電機の子会社でありながらライバルさながらに同じ市場で競争してきた。 しかし、これはある意味重複する部分も有り、事業の合理化の為に合併を行った。 これを契機として新生三洋電機を「第二の創業」としスタートを切った。 併せてロゴマークが一新された。
 「私たちは世界の人々になくてはならない存在でありたい」
新しい経営理念を基調色(サンヨーレッド)に、 また先端技術への意欲的な取り組みと新しい文化を創造してゆく姿勢を表現した。
・コーポレートカラーのサンヨーレッドは、太陽のような活力に満ち溢れた三洋電機株式会社および三洋電機グループを象徴するもの。
・ワードマークの中心"N"の左右の5本線はそれぞれ5つの行動基準と長期ビジョンを表している。

■5月に赤井電機を退職し、東京三洋電機へ入社
4bitマイコンのソフト学習とアクセサリーマイコンの開発。 技術報告書 『4Bitマイコン簡易高級言語』 を作成した。

Comments(1)
cuncun-2021/06/26 10:51:08
オーディオが大好きで選んだ赤井電機。音響機器のデジタル化、 小型に追いつけず、一部のマニア向けの商品群となっていた。 折しも会社の先輩が転職しその会社がソフト技術者を募集していた。 そこで面接試験を受けた。三洋マイコンでソフト設計・作成の経験が有り、 採用が決まった。


1985/12/31 23:58:58

1985年 カセットデッキの傑作


CMR-60メカのカム制御ソフトの設計。
ミニコンポの匡体設計(商品化は中止)。
個人趣味でスーパーマリオブラザーズのROM改造、 ファミコンを分解改造して遊んだ。

1984年 博子誕生

AKAIカセットデッキGX-R66、オートイジェクト機構を設計した。 リールモーターにウオームギアを追加する提案を行い機構設計を行った。
二人めの子供はあっという間に生まれた。 出産日に会社から病院に到着が遅れて古河についた時にはもう生まれていた。

1983年 優子誕生

Dual-CapstanのLoop内張力の解析。
カセットテーププレーヤーの機構部品設計。
自分に子供が生まれた、とても嬉しかった。 家に帰るのが遅くなる日もあるが子供が寝付かずに泣いている、 抱っこしてあやせるのが、妙に嬉しかった。

1982年 結婚

カセットテープ走行性能改善実験。
常盤町アパートに住居。
毎日東京に通勤した。片道2時間。
月刊I/OにVIC1001の投稿記事掲載。
この年の11月に古河で結婚式を挙げた。
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cuncun-2021/06/26 13:10:08
結婚するに当たり、カミさんの実家の近くにアパートを借りました。 電車で東京に通勤するのは楽ではなかったが苦にもならなかった。 毎日が楽しかった。

1981年 赤井電機入社

東京大田区糀谷のアパートに住居。
秋葉原の真光無線で営業研修。
オーディオ設計部へ配属。
規格、開発、試作、生産の研修。
オーディオ商品の性能検証実験。
個人PCとしてVIC1001を購入。

Comments(1)
cuncun-2021/06/09 10:48:08
PCのソフトを書くのがとにかく楽しかったです。